開経偈

 

 

開経偈 (かい きょう げ) 一返

む   じょう  じん  じん  み   みょう ほう

無  上  甚  深  微  妙  法

ひゃく せん  まん  ごう  なん  そう   ぐう

百  千  萬  劫  難  遭  遇

がー  こん  けん  もん  とく   じゅ  じー

我  今  見  聞  得  受  持

がん  げー  にょ  らい  しん  じつ  ぎー

願  解  如  来  眞  實  義

■開経偈(かいきょうげ)とはこういう意味 So-Netより転記

   お経を唱える、写経をする、仏教のお話をして菩薩行を行ずる、
   お題目を唱える、これらの仏事をいきなり行うのもおかしなものです。

   まず仏陀に目の前に来て頂く必要があります。
   仏様に目前に来て頂く儀式が、古来より伝わっている開経偈であります。
   開経は読んで字の如くお経を開くの意味ですが、
   これは梵語の(gatha)の意味であり、頌(じゅ)という意味であります。

   仏の徳を賛嘆して教理を述べたものなどに使われます。
   開経偈とはお経を讃嘆したという意味なのです。和文読みすれ

   無上甚深微妙法は百千万劫にも遭い遇うこと難(かた)し、

   我 今見聞し受持することを得たり、

   願わくば如来の真実義を解したてまつらん

   この通称、開経偈は各宗派を問わず、
   広く読まれている有名な頌であります。
   たいていの法華経勤行集にもまず出てきます。

   「無上甚深微妙法」とは無上等正覚の事であり、
   その仏陀の正覚は甚だ深く微妙な法である、
   といってまず仏陀を賛嘆します。
   微妙な法とは即ち妙法ということであり、
   妙法を詳しく表現すると妙法蓮華経となるのです。
   微妙の意味は、通常人が夢にも知ることができぬ大法なるが故に、
   微妙といっているのです。

   仏陀、即ちお釈迦様の偉大さは通常の人間のレベルとは月とスッポン、
   太陽と暗闇以上の差があるのでして、
   お釈迦様を人間レベルで見ている仏教書がありますが、
   全くそれは間違いであります。

   「礼楽先にはせて真道のちに広む」と、云われているぐらいであり、
   孔子の教えさえ仏教の入口門の役割しか果たしません。
   又科学と仏教はまるで異なるものでありますから、
   この「微妙」という意味は、科学的な精緻などとはまるで違う概念です。

   仏法の難しさは水の中で透明なカンテンを探す、
   あるいは鏡に映った自分の顔は見る事はできても、
   本当の生の顔は自分では一生見ることができないのに、
   それをあえて見ようとするような難しさなのです。

   故にその偉大な微妙法は「百千万劫難遭遇」
   つまり百×千×万×劫(劫は一説には二千万年)の間、
   聞く事が難しいというのです。
   そんなありがたい「お経」を「我今見聞」と喜びます。
   あらゆる経典を読む前に合掌し、この頌を唱える事によって、
   感謝の心を沸き上がらせるのです。

   「特受持」は、このありがたい経を受持する事を得、
   深く行じてまいりますと仏陀に対し誓願する意味であります。

   日蓮聖人は「受くるは易く保つは難し、
   さる間、成仏は保つにあり」と、云われていますが、
   凡夫は経を一度聞いて有り難く思いますが、
   しばらくするとムクムクと怠け心が出現し、
   いつしか経を読まなくなり「我より大した者はない」と増長慢となったり、
   「私みたいな者は悟りを得られない」とあきらめ、修行を止めるのです。

   そして目先の小さな快楽に没頭し、
   あるいは財産や名声や社会的地位を得る事に熱中し、
   仏教を求める心を失い、四悪道に落ちてしまうのです。

   株や土地で何百億という気の遠くなるような大金を弄び、
   ついには新聞事件となり、
   逮捕されて人生が終わるような人間を見ると、
   さもありなんとこの仏の御説法を理解しても、
   自分の事となると気がつかないのです。

   「人を笑う」自分も大同小異なのです。
   人生の目的は仏陀となる事なのに、
   魔にたぶらかされて仏陀となる事ができない。
   このあたりを法華経方便品第二には実に上手く表現されています。

   舎利弗当に知るべし、

   我本誓願を立てて一切の衆をして我が如く等しくして

   異なることなからしめんと欲す

   我が昔の所願の如き今は己に満足す 

   一切衆生を化して皆仏道に入らしむ

   若し我衆生に遇えば尽く教うるに仏道をもってす

   無知の者は錯乱し迷惑して教えを受けず

   我知りぬ此の衆生は未だ曹って善本を修せず

   堅く五欲に著して痴愛の故に悩みを生ず

   諸欲の因縁を以って三悪道に墜堕し六趣の中に輪廻して

   備さに諸の苦毒を受く受胎の微形世々に常に増長し、

   薄徳少福の人として衆苦に逼迫せられる

   邪見の稠林(しゅうりん)若しは有若しは無等に入り

   此の諸見に依止して六十二を具足す

   深く虚妄の法に著して堅く受けて捨ず我慢にして

   自ら衿高し諂曲にして心不実なり

   千万億劫に於て仏の名字を聞かず

   亦正法を聞かず是の如き人は度し難し・・・

   そしてたまたま仏縁によって正法を聞いても、
   一生正法を受持する事ができません。
   「得受持」はこのように大事なのであり、
   堅く仏教を信じて受持して仏陀になるべく
   精進に精進を重ねて一生を全うする。この事が大事なのです。

   我等凡夫は智慧なき故に、
   信をもって慧に変えて自ら反省行を通し、
   仏陀となるのです。それが願いですから、
   「願解如来真実義(がんかいにょらいしんじつぎ)」となるのです。

   お釈迦様のご説法には真実の教えも方便の教えも色々ありますが、
   真実の教えをぜひ聞かせて下さいとお願いするのです。
   第一義諦といわれる無上等正覚智こそ、如来の真実義であり、
   正法であり妙法であり、これは空仮中三諦であり、
   事の一念三千としての南無妙法蓮華経のことなのです

   この短い開経偈を暗記して、あらゆる経典を読む前に、
   必ず三唱してから経典に入られるよう望みます